"その時、豹は向うの黒い土手の上で、痩せた女を喰っていた。その女は私に多少拘り合いのある女の様な気がして来た。私は戸の細目から首をのぞけた。豹がその女を見る見る内に喰ってしまって、着物だけを脚で掻きのけた。そうして私の方を見た。私は豹に見られたと思って、驚いて隠れようとした。その時豹が急に後脚で立ち上がる様にこちらを向いて、妙な顔をした。笑ったのではないかと思う。わたしはひやりとして、あわてて戸をしめた。
「この扉の上だけだから、ここ丈どうかならんかな。これだけ居るんだから、みんなで豹を殺せない事もなかろうじゃないか」と私がみんなに云った。
みんなは割り合いに落ち着いた顔をしていた。矢っ張り私だけなのかも知れない。私は心細くて堪らなくなった。そうして又怖くてじっとしていられない。
「どうかしてくれ、豹に喰われたくない」と私が云って泣き出した。
すると辺りにいた五、六人のものが、一度にこちらを向いた。
「あなたは知ってるんだろう」と、一人が私に云った。そうして変な顔をして少し笑っている。
「洒落なんだよ」と外の一人が駄目を押す様に云った。
「何故」ときいた者がある。
「過去が洒落てるのさ、この人は承知しているんだよ」
「ははん」と云って、その尋ねた男が笑い出した。するとみんなが一緒になって、堪らない様に笑い出した。
私はあわてて、なんにも知らないんだからと云おうと思ったけれど、みんなが笑って計りいるから、兎に角涙を拭いて待っていたら、そのうちに私も何だか少し可笑しくなって来た。気がついてみたら、豹が何時の間にか家の中に這入って来て、みんなの前にしゃがんで一緒に笑っていた。"
内田百閒「豹」
@2 years ago