"ヒンメルスバッハが、チラシのぎっしり入ったスーパーのカートを押して、通りを歩いているのだ。一軒一軒の前で足を停め、郵便受けにチラシを差しこんでいる。郵便受けのない家の前では、腰をかがめて、ドアの下のすきまから押し入れる。恐ろしいことが思い浮かぶ――ヒンメルスバッハが、私の代わりに敗残者になっている、と。はじめに彼がパリで挫折するのを見て以来、ヒンメルスバッハの役目は、敗残者の像を鏡像として私に見せ、私をおびえさせ戒めることにあったのだ。私は無力だ。頭が混乱し、狼狽が身内を走り抜け、眼に熱いものがこみあげる。歩みをゆるめて、路上に停められた車の蔭に隠れる。ヒンメルスバッハと顔を合わせたくないし、口をききたくない。彼は私のことも自分のことも理解していないだろうし、そして私には、この衝撃について彼に説明する気力もなければ、能力もないのだ。ヒンメルスバッハへの涙だと思ったのは当初だけだったことが、しだいに意識される。いま、涙はただ自分にむけられている。私だって、もし進退窮まれば、チラシを配って街を歩いていただろう。自分が際限なく屈することができることをいつか否応なく公衆の面前に晒す日が来るのではないか、というのが、私のたえざる恐怖だった。さいわいなことに、ここでまた珍事が起こる。なかば彼に、なかば私にとっての衝撃から私を解放してくれたのは、またぞろヒンメルスバッハだった――これで二度目、やつは体を屈めて、車のサイドミラーを見ながら、髪を梳かしたのだ。ヒンメルスバッハよ、と私は温かい気持ちでののしる、そこまで落ちてもまだ格好いいと思われたいのかよ。"

ヴィルヘルム・ゲナツィーノ『そんな日の雨傘に』
@1 year ago